得意淡然 失意泰然

生きて生きて生きて生きて生きる

善悪

ほとんどの人は「善悪」とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと実のところは思っている。「自分さえよければよい」という言い方が端的にそれである。これを少し巧みに言うと「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に泥棒することも法律に触れなければよいことなのである。しかし、これは間違いである。よいということは、社会にとってもよいことなのではなく、自分にとってもよいということなのである。おそらく、殺人者とて言うだろう。「自分にとってよかったから殺したのだ」と。このときの「自分」が問題なのである。普通の人は自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。むろん悪くない。いや正確には、人は自分がよいと思うようにしか生きられない。だからこそ、それをよいとしているその「自分」の何であるかが問題なのである。自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか?誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか?命は誰が創ったのか?よく考えると命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。いわば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。こういった感覚、この不思議な感覚に気づかせる以外に、善悪を教えることは不可能である。

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