得意淡然 失意泰然

生きて生きて生きて生きて生きる

アンチエイジング

(とある哲学者の語り)

いつまでも若くいたい!とアンチエイジング願望が世の全体に広まっていますね。 「アンチエイジング」とは読んで字のごとく「抗加齢」、「抗老化」、すなわち老いることに抗うことです。老いるということは抗われるべき、忌むべき事柄ということになります。そうは言っても老いるということは物理的自然現象なのだから抗って抗いきれるものではありません。そのことを深いところで人は知ってします。だから抗いきれないその部分を「成熟」と言い換えて肯定しようとしてみたりもするのです。 老いるということは老いたいとか老いたくないとか、こっちの側の勝手な願望とは 無関係な、端的な事実です。自然の生命現象であります。こういう当たり前のことを認識していないから老いたくない、老いるのが怖いという無用の恐怖を生きることになってしまうのです。したがって、この恐怖、老いへの恐怖というのは死の恐怖とはもって非なるものです。老いへの恐怖とは裏返し若さへの執着です。 なぜ若さに執着するのかというとそれが快楽の源泉だからなのです。

「ピンピンコロリ」が、アンチエイジングに励む人々の合言葉なのだそうですが、 ビンビン元気に遊んで生きて、突然コロリと死にたいものだと。このようなものの考え方に何となく違和感をおぼえる人は少なくないと思います。 ”どうせ死んでしまうのだから死ぬ前に楽しみたい。楽しむだけ楽しんだら、 人生に用はない。だとしたらサルでしょう。死の何であるかを考えることもなくひたすら快楽を追求するための動物的生存である。といったらサルに対しても失礼です。動物は動物の仕方で真摯な生存を全うしているのだから。人間が動物と異なるのは生死の何であるかを考える機能、すなわち精神を所有しているところにあります。精神は誰もが等しくそれを所有して生まれてきたはずのものです。なのにほとんど使用されることもなく、どこかその存在すら知らされることもなく終了される人生とはいったい何か。そのような人生は 完全に無内容なものに見えてしまいます。快楽の追求のためにのみ若さに執着し、中身は無内容のまま年老いたそのような人こそ皮肉なことに「老醜」という形容がふさわしくはないかと。尊敬に値する老人、人生の意味を語れる老賢者はどこに?アンチエイジング社会にそんな人を求めても無理です。 だから自分で考える。実際老いるということも、これを否定しさえしなければきわめて豊かな経験なのです。何というかこの玄妙な味わい、人生の無意味もまた意味のうち、意味でも無意味でもない在ることそのもの、存在と時間、時間の時熟、自身の人生を歴史として味わえる成熟であります。

この味わい、この思索が何ともいとおしいのだという感覚がさて、いつ芽生えることでしょう?

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