後世に遺したいもの
人間が後世に遺すことのできる、誰にも遺すことができるもので、利益ばかりがあって害のないものがある。それは勇ましい高尚な生涯である。これが本当の最大遺物である。高尚なる勇ましい生涯とは、この世はけっして悪魔が支配する世の中ではなく、神が支配する世の中であるということを信じること、失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信じること、この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中への贈り物としてこの世を去るということである。その遺物は、お金や事業や文学などと違って誰もが遺すことができる遺物ではないかと思う。後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみせた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、とこの心掛けを持って我々が毎年毎日進んだならば、我々の生涯はけっして70年や80年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹なようなもので、だんだんと芽をふき枝を生じてゆくものであると思います。
モラルの押し売り
おまえがどんなに生活が苦しかろうが、借金は借金だろう、返済にこんなに苦労するほど借金しないと学歴が取れない社会って何だ、とか、なに問い返しているんだよ!借りたもんは返すもんだ、これが人間の筋ってもんだろう。これは歪んだモラルの押し売り例。
仕事がむなしいだって?おまえふざけるなよ。この給料泥棒。仕事があるだけでもましだと思え。ましてや仕事の意味なんて、おまえ、イカれてんじゃないのか?世間はそれじゃ通らないよ。仕事をしてこそ一人前なんだから。これはサディズム混じりのモラルの押し売り例。
ネオリベラリズムの失敗の連続・蓄積が背景。
【南の島の先住民の話】
彼らは昼間から寝そべっています。そこにヨーロッパからの観光者がやってきます。皆さんは昼からそんなに怠けてちゃんと働きなさい、と彼らは言います。何のためにだい、と島の先住民は問い返します。こうして昼間からビーチでのんびりできるだろう、と観光者たち。それはもう俺たちがやってることじゃないか、と島の先住民は返します。
この金持ちの観光者たちの望みは、何の心配もなく、あくせくせずに、のんびりと南の島で遊びたいといったささいなものですが、それを実現するために死ぬほど嫌な上司のもとで働いたり、環境を破壊したり、その結果として感染症を含む自然災害におびえて暮らす必要があるのでしょうか。
苦しみ
万物は絶えず変化していること、永続する本質を持つものはひとつもないこと、完全に満足できるものはないこと、この3つは基本的な現実である。苦しみが現れるのは、私たちがこれを正しく認識しそこなっているからだ。人は、どこかに永遠の本質があり、それを見つけてそれとつながれさえすれば、完全に満足できると信じている。この永遠の本質は、神と呼ばれることもあれば、国家と呼ばれることもあり、魂、正真正銘の自己、真の愛と呼ばれることもある。そして、人はそれに執着すればするほど、失望し、惨めになる。それを見つけられないからだ。執着が大きいほど、自分と大切な目標との間に立ちはだかっているように見える人や集団や機関に対して、大きな憎しみを募らせるから、なお悪い。
アルゴリズムが支配する世界
アンナカレーニナがスマートフォンを取り出して、カレーニンの妻であり続けるべきか、それとも颯爽としたヴロンスキー伯爵と駆け落ちするべきかをフェイスブックのアルゴリズムに尋ねるところを想像できるか?シェイクスピアの戯曲できわめて重要な決定がすべてGoogleのアルゴリズムによって下されることを想像できるか?ハムレットとマクベスははるかに安楽な人生を送れるだろうがそれはいったいどんな種類の人生になるのか?そのような人生の意味を理解するためのモデルが私たちにはあるのか?
今日すでに私たちは誰一人よく理解していない巨大なデータ処理システム内部のごく小さなチップと化しつつある。
数十年のうちにはバイオメトリクスデータの途切れることのない流れに情報を提供してもらっているビッグデータアルゴリズムが私たちの健康状態を24時間体制で毎日モニターできるようになる。ビッグデータアルゴリズムは、私たちが異常を感じるよりもずっと以前にインフルエンザや癌やアルツハイマー病を最初期の段階で検知することができる。そして私たち一人ひとりに特有の体格やDNAや性格に合った適切な治療や措置、食事、日々の養生法を推薦できる。人々は史上最高の医療を享受できるが、まさにそのせいで、おそらく四六時中、病気になるだろう。過去には人は痛みを感じない限り、あるいは足を引きずるなどあきらかに障害が出ない限り完全に健康だと感じていた。ただ2050年までにはバイオメトリクスセンサーとビッグデータアルゴリズムのおかげで、病気は痛みや障害につながるよりもはるか以前に診断され治療されるようになるかもしれない。その結果、人は常に何かしらの健康問題を抱え、アルゴリズムからあれやこれやの勧めに従う羽目になるだろう。ただ、こうした病気のいっさいに対処できる暇とエネルギーのある人などいるだろうか?
不機嫌の撃退法
サラリーマンの生活時間を分析したある調査で、最大を占めるのは睡眠時間であったが、その次は"不機嫌な時間"だったそうで、何と起きている時間の22%も占めるとのことである。なぜ私たちは史上かつてないほど豊かな社会に暮らしているのにもかかわらず毎日眉をひそめながら生きているのか?
それは実は「悩みが客観的に存在している」かのように誤解しているからではないか。「人生即主観」という言葉があるが、この世界は客観的な存在ではなく、各自のものの見方や解釈の仕方によってさまざまに現れてくる。すべては気の持ち方次第ということもできる。自分の未来を恐れるから未来が恐ろしく見えるのではないか。自分の未来が客観的に恐ろしいわけではないだろう。同じ状況でもそれを受け止める人の主観により状況はさまざまな様相を見せるのではないか。これからの人生は自分の考え方次第でどうにでも変えられるに違いない。
デール・カーネギーは『道は開ける』で「みじめな考えをもてばみじめになる。恐ろしいと考えれば恐ろしくなる。失敗を考えれば失敗する。こんな否定的な考え方はやめなさい。楽しいことを考えよ。成功を考えよ。人の人生は当人の思惑によってつくられるのだ。常に人生の明るい面に光を当てよ。そのようにものを見るように心の持ち方を変えよ。」と言っている。
後ろ向きの人にチャンスはやってこないし、人生も微笑まない。人の未来はその人の考え方次第である。未来はこうと決まっているわけではない。その人の考え方と努力によって未来は無限のバリエーションを見せるものである。このように確信しなければ道は開けない。大胆に積極的にものごとを考えること。消極的考えにとらわれやすい脳という器械の癖を徹底的に直すこと。道を開くためにはそれが必要である。
誰かは言うかもしれない。「何の根拠もないのに明るい未来をどうやって想像するの?」まさか、自身が何もせず明るい未来が降ってくると思う人はいないと思うが、それこそが消極的思考だと思う。
なぜ人を殺してはいけないのか?
1.なぜ人を殺してはいけないのか?
<1>殺された人がかわいそうだから
死んでしまった人自身がどうなっているかということは、生きている側の人にはわからない。いないのだったら、何かを感じているはずもない。殺された人がかわいそうだというのは、実は殺された人がかわいそうなのではなく、生きている人がかわいそうだと思っているだけなのである。でも殺された人の家族は明らかに悲しんでいる。これはどうみてもかわいそうなことなので人を殺してはいけないと言えるかもしれない。でも家族を悲しませるのがいけないのなら、家族のいない人は殺してもいいし、いる人でも家族を悲しませないように殺せばよいということになってしまう。だから理由にはならない。
<2>自分が殺されるのは嫌だから
「嫌」と「いけない」とは違うことだ。たとえば人から叱られるのは嫌なことだけれども、人を叱るのはいけないことではないからだ。叱ってあげた方がその人のためになるから叱ることが多い、殺してあげたほうがその人のためになるということがあるということもできる。殺した方が大勢の人のためになる場合だってある。 大勢の人を殺したヒトラーのような人は殺した方が皆のためになるのではないだろうか?でも、だとすると殺した方がいい人といけない人の区別はどうつけたらいいのだろう。
<3>命はかけがえのない大事なものだから
人を殺すのはいけなくて、牛ならいいのかということになってしまう。
<4>法律によって決められているから
罰せられなければ殺してもいいし、見つからなければもっといいということになってしまう。
<5>殺される人は暴力を受けて痛そうだから苦しそうだから
人を苦しませずに殺す方法はいくらでもある。
(BREAK)
小中学校などの規則、「廊下を走ってはいけない」、「髪を染めてはいけない」などは必要だろうか? 規則(法律)はそれを「してはいけない」としているのであって、「悪い」としているわけではない。どうしてこんな規則があるのかというと多くの人はそれを悪いことだとは思っていないからということが わかる。
2. 人を殺すことは悪いことか?
明確な答えなし→自分で考えましょう
一般的には、道徳や慣習がよいとしているものは「よい」であり、法律や社会が悪いとしているものを「悪い」 とされます。しかし、道徳や法律なんて、まさしく時代や国によって違う相対的なものだからそれらにおける 「よい悪い」が相対的であることは当然です。なのに人は「よい悪い」も相対的な「よい悪い」のような道徳や 法律のような具体的な形であるのだと思っています。でも道徳や法律は自分の外にあるもの、時代や国によって変わるものなのだから、そんなものが絶対であるはずはありません。つまるところ自分の外側にある道徳や法律がよいとし、または悪いとすることが、よいことや悪いことなのではありません。よい悪いを判断する基準は自分の内にしかないのです。だからといってそれは人によって違う相対的なものでは決してありません。なぜなら「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある、そして、それらの意味を全ての人が知っているということは絶対的なことであるからです。
よくわかった、で実際にはどうすればいいんですか?と聞きたい人もいるかもしれないが、そうではなく自分で判断する以外に善悪なんかないということが言いたいのです。人は「よい」と「悪い」という絶対的な価値 の言葉を自分の内に所有している。だからそれぞれの人によって全部が違う相対的な状況において絶対的な善悪を実現してゆくことができるのです。