得意淡然 失意泰然

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なぜ人を殺してはいけないのか?

1.なぜ人を殺してはいけないのか?

<1>殺された人がかわいそうだから

死んでしまった人自身がどうなっているかということは、生きている側の人にはわからない。いないのだったら、何かを感じているはずもない。殺された人がかわいそうだというのは、実は殺された人がかわいそうなのではなく、生きている人がかわいそうだと思っているだけなのである。でも殺された人の家族は明らかに悲しんでいる。これはどうみてもかわいそうなことなので人を殺してはいけないと言えるかもしれない。でも家族を悲しませるのがいけないのなら、家族のいない人は殺してもいいし、いる人でも家族を悲しませないように殺せばよいということになってしまう。だから理由にはならない。

<2>自分が殺されるのは嫌だから

「嫌」と「いけない」とは違うことだ。たとえば人から叱られるのは嫌なことだけれども、人を叱るのはいけないことではないからだ。叱ってあげた方がその人のためになるから叱ることが多い、殺してあげたほうがその人のためになるということがあるということもできる。殺した方が大勢の人のためになる場合だってある。 大勢の人を殺したヒトラーのような人は殺した方が皆のためになるのではないだろうか?でも、だとすると殺した方がいい人といけない人の区別はどうつけたらいいのだろう。

<3>命はかけがえのない大事なものだから

人を殺すのはいけなくて、牛ならいいのかということになってしまう。

<4>法律によって決められているから  

罰せられなければ殺してもいいし、見つからなければもっといいということになってしまう。

<5>殺される人は暴力を受けて痛そうだから苦しそうだから

人を苦しませずに殺す方法はいくらでもある。

 

(BREAK)

小中学校などの規則、「廊下を走ってはいけない」、「髪を染めてはいけない」などは必要だろうか? 規則(法律)はそれを「してはいけない」としているのであって、「悪い」としているわけではない。どうしてこんな規則があるのかというと多くの人はそれを悪いことだとは思っていないからということが わかる。

2. 人を殺すことは悪いことか?

明確な答えなし→自分で考えましょう

一般的には、道徳や慣習がよいとしているものは「よい」であり、法律や社会が悪いとしているものを「悪い」 とされます。しかし、道徳や法律なんて、まさしく時代や国によって違う相対的なものだからそれらにおける 「よい悪い」が相対的であることは当然です。なのに人は「よい悪い」も相対的な「よい悪い」のような道徳や 法律のような具体的な形であるのだと思っています。でも道徳や法律は自分の外にあるもの、時代や国によって変わるものなのだから、そんなものが絶対であるはずはありません。つまるところ自分の外側にある道徳や法律がよいとし、または悪いとすることが、よいことや悪いことなのではありません。よい悪いを判断する基準は自分の内にしかないのです。だからといってそれは人によって違う相対的なものでは決してありません。なぜなら「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある、そして、それらの意味を全ての人が知っているということは絶対的なことであるからです。

よくわかった、で実際にはどうすればいいんですか?と聞きたい人もいるかもしれないが、そうではなく自分で判断する以外に善悪なんかないということが言いたいのです。人は「よい」と「悪い」という絶対的な価値 の言葉を自分の内に所有している。だからそれぞれの人によって全部が違う相対的な状況において絶対的な善悪を実現してゆくことができるのです。

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