得意淡然 失意泰然

生きて生きて生きて生きて生きる

生きる意味

誰でも一定の期間、仕事を続けていると壁にぶつかってしまいどうしていいかわからなくなったり、慣性の法則に身を任せてしまい方向性を失いかけたり、 毎日同じようなことの繰り返しに「こんなことに意味があるのか?」などと悩んでみたりすることはありうることと思います。自分が一番、そう感じたのではとある地方支店に勤務したときでした。当時30代前半で本店から初めての地方に転勤し、セクションの主任としてバリバリ仕事をしていたのですが(つもり)、毎日夜遅くまでまで仕事をしておりまして、当時自転車での帰り道、本当に空虚な気持ちになることが多かったのを覚えています (特に真っ暗な中、自転車をこいで帰るのでわびしい・・・) 。毎月毎月、数字数字の連続で、それが1年間、12ヶ月続き、翌年も同じことの繰り返しであり、前年度どんなに数字がよくても翌年はまたゼロからのスタートとなり悪ければ、 どん底へという感じ。。。営業ですから当たり前でしょうが、経験の浅さからか世の中の道理を理解するには幼かったのかわかりませんが、今一釈然としない日々を過ごしておりました。それでもあるとき、何か大事なものの存在に気づき、モチベーションを復活させた結果がそれから20年以上経つ今につながっているのかと思います。

「生きる意味」を見失っている方はそうそういないと思いますが、もやもやしている方がいらっしゃったら以下の文章が勇気を与えてくれると思います。 出典はヴィクトール・フランクル氏です。

 

無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、囚人島に移送されました。その黒人が 乗っていた船は「リヴァイアサン」と言いましたが、その船が沖に出たときに、火事が発生しました。その非常時に、黒人は手錠を解かれ、救助作業に加わりました。 彼は十人もの人の命を救いました。その働きに免じて、彼はのちに恩赦に浴することになったのです。ここで尋ねたいのですが、もし誰かがまだ乗船前に、つまりマルセイユ港の埠頭で、この黒人にお前がこれからも生きる意味がまだ何かあるか?と尋ねたとしたら どうだったでしょうか。たぶん黒人は首を横に振らざるを得なかったでしょう。まだどんなことが私を待ち受けているというのか、と(無期懲役ですからもう何もないと)。けれども、どんなことがまだ自分を待ち受けているかは、誰にもわからないのです。ちょうど十人の命を助ける仕事が「リヴァイアサン」の黒人に待ち受けていたように、どのような重大な時間が、どのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているか、誰にもわからないのです。

 「生きる意味があるか」と問うのは始めから間違っているのです。つまり私たちは生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。 私たちは問われている存在なのです。こう考えるとまた、恐れるものはもう何もありません。 どのような未来も怖くありません。未来がないように思われても怖くはありません。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。 すべてはもう、そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際、 どんな未来が私たちを待ち受けているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。 あの乗船前の黒人ように。

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