得意淡然 失意泰然

生きて生きて生きて生きて生きる

生きている実感

今から100年前の1900年時点の平均寿命は約40歳。人生は40年でした。 したがって中高生くらいの年なら親がいなくても当然で、だから無我夢中で稼いだり、食べたり、生きることに必死でいられたのでしょう。その後の医学の進歩で人生は80年時代となり100年で寿命が倍に伸びたということになります。 一方、私たちを取り巻く環境はこの間「超コンビニ化社会」を目指してきました。 お金を入れてボタンを押せば缶ジュースが出てくる。そうした自動販売機のように社会はすべて「コンビニ化」してきました。街角のコンビニで30分ほど立ち 読みしておにぎりとコーラを買って戻ってくるのにもはや一言も発する必要はないでしょう。電車やバスに乗ってスマホを見ていればいくらでも暇をつぶせるし、なんとなく友達とつながっている感覚が得られるものです。 100年前のように親が頼りにならなくて食いぶちを稼ぐ面倒はないからバンドをやるのにギターが買いたいようなときにだけバイトをやれば済む。デジカメでもスマホのカメラでも好きなだけデータを記憶してくれるからフィルムが貴重で現像代も高かった昔のように1枚1枚を大切に撮ることはない。バシャバシャ撮ってメモリーにためておけばいい。という感じでしょう。

「超コンビニ化社会」はそのように人間の工夫や人間同士のコミュニケーションを奪ってゆきます。 戦いや飢えはない。生命の危機が感じられないから必死に生き抜く切迫感はない。 しかも人生が長くなっているのに面倒くさくて時間のかかることがどんどんなくなる。 何のために生きているのか見えにくくなる。このようなロジックではないかと思います。 あまりに「生きやすい」からこそ「生きにくい」時代となっているのではないでしょうか。 だから今の子どもたちが「なんか居場所がない」とか「どうやって大人になれば いいのか」とか「生きる実感がない」とか思ったとしても不思議なことではないで しょう。 平和で便利であんまり魅力的な生きざまをしている大人がいないように見える (子どもからみて)、まったりとした世の中ではアフガニスタンの孤児のために 学校を創りに出かけたりイラクの難民を救いにいったり、そうした突出した行動に出なければ「生きている実感」は得られないかもしれません。

それができそうにない多くの人たちには日常生活の中で意識的に危機を演出してみることを勧める人もいます。やっていけるかどうかわからない世界にチャレンジしてみよとのことで スペイン語を勉強する、いきなりボクシングを始めてみる、1週間自炊してみる、 1ヶ月スマホやパソコンから遠ざかる、一人旅で縄文杉に会いに行く・・・ルールはひとつ、仲間を募らないこと、あなた自身が一人で決断し、実行することだそうです。 個人的にはそんなに突飛なことをしなくても仕事をしていれば、「生きている実感」が 一定程度得られるのではないかと思います。毎日、十分刺激的ですし。。。

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