得意淡然 失意泰然

生きて生きて生きて生きて生きる

狂気

ドイツ文学研究者の柴田翔氏が、著者の中で【狂気】について書かれているので紹介したいと思います。

「私たちの生の中には狂気があります。それは、私たちの生に力と真実を与えるものであり、同時に、私たちの生を破壊し尽くしもするものです。もしその狂気を無視すれば生は無限に死に近づいて行くか、あるいは、ある時噴出する狂気によって、生は徹底的に破壊されるでしょう。人間は平凡な生活の中において、狂気を真正面から見つめ、しかも狂気を甘やかすことなく、それとつき合い続けていく他はないのです。」

「人間の営みはすべて愚かなのです。私たちのうちの狂気が、私たちを愚かな営みへと駆り立てるのです。けれども、私たちが私たちの営みを愚かだと知った時、狂気は私たちにとって、何ほどか捕えうるものとなります。しかし、私たちが、私たちの営みの愚かさを忘れ、自分が自分の生を完全に制御していると信じる時、狂気は、突然、私たちをなぎ倒すのです。」

これまで手堅く慎重に生きてきた人、生活の安定を重視し冒険などほど遠い生活を送ってきた人が人生の折り返し点を過ぎる頃になり突然、衝動に駆られ思いがけない行動に出たりするのはこういうことなのです。

f:id:nakiroy:20220209220504j:image

 

負けに理あり、勝ちに理なし

元ヤクルト・阪神楽天監督の野村克也氏がこう言っている。「負けに理あり、勝ちに理なし」
試合に負けた後、 思い返してみるとリリーフをもっと早く出すべきだったとか、あの場面では送りバントをさせればよかったとか、 作戦や選手起用
の失敗がいくつもある。 つまり負け試合というのはやるべきことをきちんとやらなかった結果として負けるのが常である、 と野村監督は言っている。ところが勝ち試合というのは、勝ってよかったと思うものの、 では次の試合も同じような作戦や選手起用で勝てるのかというと、 そうはならない。同じパターンで試合に勝てる必勝法などこの世に存在しない。 従って「勝ちに理なし」である。
これを仕事の世界に当てはめると「失敗に理あり、成功に理なし」 ということになる。ある新商品が売れなかったということは、 消費者ニーズをとらえきれていなかったとか、 デザインが斬新過ぎた等いろいろ理由があるはずである。それが「失敗に理あり」。また、 誰かがあるビジネスで大儲けしたのをみて、その経営者のところへ話を聞きにいって、 同じことをしたら儲かるかといったら、まずはそうはいかない。これが「 成功に理なし」である。ビジネスは目的よし、戦略よし、戦術も組織も人材もモラルも、 加えてマーケットもよしと「よし」が重ならないと、 なかなか成功しないのである。そして目的でも組織でも、1つでも「よし」 が欠けるとビジネスは失敗する可能性が高い。「成功に理なし」ということは、 過去にうまくいったことを続けても、成功し続けることはできないということであり、 だから成功していてもいずれ失敗するという前提にたって、次のやり方、 新しいビジネスを準備しておく必要がある。成功し続けるためには未知の仕事に挑戦し、 それを軌道に乗せてゆく能力が問われる。
コンプライアンス面ではどうだろう。 何か事が発生するときは必ず何かしら「理がある」ように思う。確認不足、長期放置、認識の甘さ、 徹底不足、業務知識の弱さなどが「理」の一例であろう。 逆に言うとこれを未然に防止すればコンプライアンス事件は防ぐことが可能になるということでもある。上記の文脈で言えば、 これも一度成功したことを繰り返しているだけではまたどこかで失敗する(形骸化など)。 絶えまない創意工夫により新しい仕組みづくりや管理手法等を構築してゆく必要がある。 コンプライアンス課題については、「やらされ感」 のある仕事と感じる人もいるかもしれないが、位置づけは、 "事業継続の大前提"である。そう認識すれば、チャレンジし甲斐のある魅力的な課題であると思う。

f:id:nakiroy:20220127091948j:image

 

 

リーダーシップのスタイル

リーダーシップのスタイルは人それぞれ、固有の特徴があってよいのです。有能なリーダーの中には物静かで控えめな人もいれば、陽気で口数の多い人もいます。とにかく活発な人もいれば、慎重な人もいます。カリスマな人もいれば、そうでない人もいますが、注意しなければいけないのは、リーダーシップとカリスマ性を混同してはいけないということです。両者は別物であり、極めて優秀なリーダーでもカリスマでない人もいます。優秀なリーダーにとって必ずしもカリスマ性は必須条件ではないのです。物憂げで思慮深いエイブラハム・リンカーン、厳格で粘り強いマーガレット・サッチャー、情熱的で雄弁なマーティン・ルーサー・キングなど史上に残るリーダーを振り返るとそのスタイルは多様です。でも誰もが有能なリーダーでした。自分らしい、自分ならではのリーダーシップを身につければよいのです。

f:id:nakiroy:20220124214424j:image

 

目標設定

私たちの社会では、時間や進歩に対して直線的な見方をしている。そういう見方を、学校でじわじわと浸透させる。人生とはやるべき仕事や習得すべき技術や到達すべきレベルの連続なのですよ。目標を設定して、それに向かって努力しなさい、とね。しかし、人生はそんなに規則正しいものではない。規則から外れたところでいろんな教訓を与えてくれる。目標を設定すると自己管理ができているような気がするものだ。だが、人生はそんなに扱いやすいものではない。人生の中で何をすべきかなんて問うのは意味がない。どうせ、人生なんて、思いどおりにはならないのだから。たいていの人はマンネリ化した生活から抜け出すために目標を設定する。だけど、今日の目標は明日のマンネリなのだ。

f:id:nakiroy:20220118085418j:image

 

善悪

ほとんどの人は「善悪」とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと実のところは思っている。「自分さえよければよい」という言い方が端的にそれである。これを少し巧みに言うと「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に泥棒することも法律に触れなければよいことなのである。しかし、これは間違いである。よいということは、社会にとってもよいことなのではなく、自分にとってもよいということなのである。おそらく、殺人者とて言うだろう。「自分にとってよかったから殺したのだ」と。このときの「自分」が問題なのである。普通の人は自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。むろん悪くない。いや正確には、人は自分がよいと思うようにしか生きられない。だからこそ、それをよいとしているその「自分」の何であるかが問題なのである。自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか?誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか?命は誰が創ったのか?よく考えると命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。いわば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。こういった感覚、この不思議な感覚に気づかせる以外に、善悪を教えることは不可能である。

f:id:nakiroy:20220115212719j:image

 

リスク

すべてのビジネスマンは「働くこと、働かされること」を楽しむべきだ。若者たちに仕事を楽しむ方法を学ぶ機会が与えられていないのは本当に残念なことだ。代わりに若者たちは人生からリスクを取り除く方法ばかり学んでいる。それこそが若者に幸福をもたらす唯一の道だと信じられているのだろう。だが、誰かに幸福を保証してやることなどもともとできないことだ。唯一できるとしたら、その人に幸福を追う自由を与えることだけだ。そして幸福とはその人のがんばり次第なのだ。もちろん幸福を追うことには失敗やリスクを伴う。それらを超えてゆかなければならない。リスクのないところには成功も幸福も訪れないのだ。我々が成功するには個人でもチームでもパイオニア精神で前進するしかない。リスクを取ることだけが、自由を手に入れる唯一の道だ。他に道はないのだ。

 

マクドナルドの創業者レイ・クロック氏の言葉です。

f:id:nakiroy:20220107101911j:image

 

世界を変える

1970年代、ニューヨークのブロンクスの貧困地域で育った大勢の子供たちが、新しい文化を作り出しました。それがヒップポップです。たったひと世代で、彼らは貧困や人種差別を克服し、音楽業界からの大反発を乗り越えて、世界でもっとも人気のある音楽ジャンルを確立したのです。生の声とハンガリー精神から生まれた文化で、世界を変えたのが彼らだったのです。

ラップは本当の世界を語っています。犯罪や貧困や腐敗した警察を。これまでの音楽から飾りを取り除いたのがラップの存在です。ラップは濁りをすべて取り払って生のものを見せてくれます。究極の音楽なのです。

f:id:nakiroy:20211224090820j:image